長浜豊国神社

付近住所 滋賀県長浜市南呉服町


秀吉公と豊国神社
 豊国神社の前進である豊国社は、慶長4年(1599)の京都における豊国社の造営を受けて創始されました。それは、慶長5年(1600)8月18日のことで、現長浜八幡宮のお旅所内に社(やしろ)を置いて、「豊国大明神」と称しました。しかし、元和元年(1615)に「大阪の陣」で豊臣家が滅亡すると、長浜の豊国社も廃止に追い込まれてしまいます。
 その後、寛政4年(1792)に至り、お旅所にあった豊国社の旧地に、蛭子神(えびす)社と合わせて豊国社が祀られ、弘化3年(1846)には秀吉公250回忌にあたり、社前に石燈籠や釣燈籠が奉納されています。明治維新になって豊(みのり)神社と改名し、明治25年(1892)には社地を現在地附近に移して、大正9年(1920)に豊国神社と改名しました。
 曳山祭の起源を秀吉公に求めるように、長浜町人の秀吉公への信仰は根強いものがあります。左図のように、個人宅でも秀吉像を持ち、それらを礼拝する慣行があったようです。この町民たちの秀吉公への信仰の核となったのが、この豊国社であったといえます。

長濱の地名起源の歌碑
豊鑑巻一 長濱真砂
 君が代も わが代も共に 長濱の
     真砂のか須の つき屋らぬまで
                    竹中半兵衛
豊臣秀吉公が羽柴筑前守秀吉の時は、天正元年浅井氏の小谷城を攻略 その戦功により主君織田信長公よりその故地を領有9月小谷に入城せしが小谷城は北に偏し雪深く寒さきびしく気候の変化はげしくて適地にあらずを以って三里余り南西(未申)の方に今浜とて古き城所に着目 即ち湖に沿い雪浅く舟の往来に便利 其上信長公の安土城に伺候するにもよく翌天正2年春此処に住まんとて築城に着工寺院も移し人家を集め町造りを始められたり 今浜を改めて長浜と名付け これ地名長浜の起源にて開町四百年前の事なり 秀吉公の軍師たりし竹中半兵衛の誌せし豊鑑に明かなり 秀吉公入城以来領内の社寺には夫々保護を加え領民には善政を施し地租免除の朱印状にて3百石を与え 長浜の繁栄を願はれ今日の長浜の基礎を築かれたる次第にて 豊公の遺徳を讃えたいと志し開町4百年式年大祭を挙行するに当り歌碑を建てる次第であります
この石は敦賀市疋田の山腹にあって金ヶ崎落城の折秀吉公がこの石にかくれて一夜を過ごされし 豊公いのち石と云う伝説がある石を搬入したものなり

      
                               何故か加藤清正像     長浜城家臣団屋敷跡

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